『昭和恐慌と経済政策』 書誌濫読0411


 『昭和恐慌と経済政策』 中村隆英 講談社学術文庫

 先月帰国したとき、東京駅の新幹線の改札前でふと足元を見ると、30センチ四方くらいのプレートがあった。昭和5年(1930年)11月14日、浜口雄幸が右翼の暴漢により遭難した現場のプレートだった。ちょうど浜口と盟友・井上準之助の生涯を描いた城山三郎さんの『男子の本懐』などを読み返したりしていたので、不思議な偶然にはっとした。

 本書はその浜口内閣の大蔵大臣・井上準之助が断行した金解禁政策と折からの世界恐慌の勃発による未曾有の昭和恐慌の発生過程を詳述する。経済史の泰斗、中村隆英氏による古典的力作。仕事の延長のような気がするので普段は経済書・経営の専門書の類は読んでもこの読書日記にはつけないようにしているが、今回は例外的に感想を載せる。

 第一次世界大戦による大戦景気の反動以降、昭和前半の日本は鈴木商店の破綻に至る昭和金融恐慌に苦しんでいた。主要国の中で唯一金の再解禁が遅れ、金本位制度への復帰することが1920年代の経済政策の懸案事項であった。

 そもそも金本位制度とはどのようなシステムだろうか?簡単に記述する。

 金本位制度下では各国通貨は金を信用の裏付けとし、あらかじめ定められた割合で正貨(金)に交換(兌換)することが許されていた。為替レートはその平価の切り下げ(あるいは切り上げ)がない限り金の交換比率に固定され、一国の国際収支の不均衡は最終的に金の流出・流入をもって決済される。

 このことは通貨発行がそれぞれの国が保有する金の量に制約されることを意味し、例えば国際収支が赤字の場合、金の保有量の減少の結果通貨供給量が抑えられ、利子率は上昇する。この信用収縮を通じて物価は下落する。デフレ効果が十分に行きわたれば、価格競争力は再び回復基調に転じ、国際収支は均衡するようになると考えられていた。
 
 第一次大戦の混乱によって主要国は金本位制から離脱したが、大戦終了と同時に再び金解禁を実施して金本位制に復帰していた。およそ100年にわたって支配的な経済秩序であった金本位制に復帰することはどの国でも「あるべき政策」と信じられていたのである。今からみれば実にシンプルで古典的な経済観と思えるが、それはやはり現在からの見方だろう。例えば、ケインズの「一般理論」が発表されたのはようやく1935年であったということに留意する必要がある。

 当時の円の実勢為替レートは金解禁前のレート(旧平価)よりも下落し価格競争力を失っていた。浜口・井上は大戦バブルでダブついた日本経済の体質を金本位制度への再復帰によって引き締め、産業の合理化を促し再び健全な国際競争力を取り戻そう意図していた。

 一般にデフレ政策は困難であるが、通貨供給の引き締めは国家財政の緊縮を必要とする。当時専横の兆候を見せ始めていた軍部の予算削減に対する猛反発を考えれば一層の政治的困難さも容易に想像できる。しかし、浜口はこのような圧力に一歩もひかず外相に任命された幣原喜重郎の国際協調路線を支持し、緊張緩和の果実である軍縮により軍事費削減との調和を図ろうとした。

 これは勇気と気骨の人であった浜口だからこそ採りうる政策目標であり、その政治姿勢を高く評価した城山三郎さんの見方を私は基本的に支持したい。後に軍事費を日銀の国債引き受けによって際限なく増大させ戦争に突入していった過程を考えれば、基本的に浜口の目指した方向性はまったく正しいといえる。

 しかし、それでも私は経済政策としてみた金解禁政策はやはり大きな失政であったと思わざるを得ない。それは結果論としてではなく、政策遂行過程においてどこか腑におちないものを感じるからだ。要約すれば私の懸念は以下の3点に尽きる。

 一、井上に経済理論の無謬性を疑っている形跡がみられないこと。金本位制の経済理論はマーケットの自動調整調整機能への全幅の信頼をベースとしている。そのような教科書的な経済観のみに依存した政策が果たして有効かどうか疑いや為政者としての惧れが感じられない。

 中村先生は19世紀を通じ金本位制度が機能したのはシステムが有効に働いたというより、これを支えた大英帝国によって維持されたと本質的な指摘をされている。19世紀を通じ常に国際収支が黒字であった英国はその巨大な黒字を海外へ再投資することで各国の国際収支を均衡させる働きをしていた。金本位制は実質的に英国、ロンドン金融市場の経済支配と裏腹で機能していたわけで、逆にこの前提が崩れれば制度の有効性も担保できないことになる。

 実際、ドイツの賠償金支払が世界恐慌のため不可能になり、救済のため米国がモラトリアム(フーバーモラトリアム)を実施したことを契機に英国からの凄まじい正貨流出がおきる。結局、英国も金本位制を維持できなくなりこれから離脱(1931年)してしまう。ここに古典的な意味での金本位制は終焉した。後年、ブレトン・ウッズ体制で間接的なドル金本位制が確立することになるが、このことは英国の経済覇権が崩壊した31年当時、英国のそれまで果たてきた支配的な役割を米国が肩代わりする準備がととのっていなかったと捉えることもできるだろう。

 勿論、井上が当時の経済理論で自明のこととされた金本位制の本質を後年の分析のように理解することは至難であったろう。が、実際の政策の運用においては理論に過度に傾斜した「頑なさ」ではなく、人智が不完全であることを前提とした政策運用や判断の「慎重さ」こそが必要であったのではないかと思えてならない。

 二、デフレ政策が国民生活に与える影響をアンダーエスティメイトしていると思われる点。新旧の平価差を井上準之助は日本経済を”シゴク”機会ととらえていたようだ。しかし、10%の差であってもその影響は国民各層に一律に表れるわけではない。

 実際、金解禁の実施に最悪のタイミングで世界恐慌が起こった結果、デフレスパイラルは凄まじいものとなってしまった。都市部での工員の生活苦、また農村の疲弊は壊滅的であった。特に農村では唯一の現金収入であった生糸のすさまじい価格暴落と外米(台湾・朝鮮)の流入による農産物価格の破壊がおき、従来農村から女工を雇用していた紡績産業の合理化にも苦しめられることとなった。

 欠食児童や娘の身売りの頻発など社会的な矛盾が増大し、小作騒動が激しくなるなど社会が不安定化する。またそのような窮状に同情した陸軍の青年将校がじりじりと心理的に追い詰められていったり、極端な左右の全体主義的な思想が受け入れられる土壌がじわじわと形成されていくなど反作用がスパイラルしながら全体として社会を蝕んでいった。このような深刻なダメージへの想像力と認識の欠如が、逐一迅速な対応を遅らせ結果恐慌を深化させてしまったのではないかと思われる。

 三、最後に、競争力を強化するための誘導的な政策がみられないこと。無論これは現在からの見方かもしれないがデフレ政策だけで国際競争力が回復するというのはあまりにナイーブ過ぎると思われる。カルテル促進による価格調整だけでなく、経済の長期的な方向性を見極めながら積極的な成長戦略への誘導を組み合わせることが必要だったように思う。

 浜口首相の遭難を契機に昭和前半の日本は坂道を転げ落ちるように転落していく。陸軍の中堅将校による秘密結社桜会による三月事件の陰謀は浜口がピストルで撃たれて数ヵ月後のことだ。同い年の9月には満州事変が勃発する。歴史に「もし」はないのは知っているが、経済失政はともかくとしてその政治姿勢が国民、天皇、重臣ともに支持されていた剛直な浜口が生存していたら、昭和維新を気取る軍部の中堅将校もそうやすやすと跋扈することはできなかったかもしれないと思う。

 本書は文庫本で日本円で840円(シンガポールの紀伊国屋で20.1シンガポールドル)の小本だが、歴史だけでなく現在への切り口も非常に多いと思われ、ビジネスパーソンにも多くの示唆と教訓を与えてくれる良書である。
by takeoga0730t | 2010-04-11 15:06 | 書誌濫読